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かたびっこ その1
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1997-06-07
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14KB
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112 lines
☆
古ぼけたプラットフォーム。長年、連れ添った老夫婦のような二脚の焦茶色の木製ベンチ。傘のない、今にも消えそうな蛍光灯。そして、仄暗い光に群がる胴体の太い蛾。
それが、僕の意識に最初に飛び込んできた風景だった。
僕は駅に立っていた。見知らぬ駅だった。駅名を表示する板っきれは何処にもなく、時刻表も、駅員も ・・・・・・ 全てが空っぽの駅だった。
殺伐とした何もない駅に、僕は訳もなくひとり立たされていた。それは完全なる受身で。僕はまさに、誰かの忘れ物みたいに、ぽつんと置かれていた。
影法師が不規則な明滅を繰り返す蛍光灯に照らされ力なく揺れていたが、風はなかった。辺りは霊安室の棺の中のようにしんと静まりかえり、音たてるものは蛾の羽と蛍光灯と僕の心臓だけだった。
誰もいない。僕、ひとりっきり。
何故、どうして、こんな場所にいるのか ・・・・・・ 記憶を探してみたけれど、何処にも見つからない。思い出せない。想像もつかない。気が付いた瞬間の前の記憶はアンカーを鋭利な刃物でばっさりと断ち切られ、記憶の海の最果てで漂流していた。現在の状況を説明してくれる遭難した記憶の遺留品は、僕の近くにはひとかけらも浮かんでいない。
空中ブランコにぶら下り、昇ってきたはずの下に降りるための階段ハシゴを盲滅法に手探りしているひとりの道化師。
そんな今の僕を象徴するようなイメージが眠っていた神経を揺さ振り、体中に共鳴した。不安定な不安が不安定な不安を上塗りし、肌寒くもないのに背筋を冷気が蝸牛のように舐めた。
それは恐怖だ。どんよりとした恐怖だ。足元の積木が崩れていくような恐怖だ。
僕は思い出せる限りの記憶を丹念に、丁寧に、ひとつひとつ、検証してみた。だが、それは何処か、透明水彩で描かれた淡い風景画のような感じがした。遠い昔、距離を隔てた、他人の出来事のような ・・・・・・ 。
朝、十時に起きた。朝食はインスタントコーヒーとバタートーストだった。ジーンズと黒い綿のソックスを穿き、胸にピンクの豚の描かれたTシャツを着、生成りのジャケットをはおった。それは確かだ。確かに、今、僕はそれを身に付けている。
アパートを出て、大学までの道のりをとぼとぼと歩き、授業に出た。有機化合物㈼。去年落とした再履修の科目。陽当たりのいい窓際の席に座り、うつらうつらと眠気を誘う春の風に頬打たれながら、退屈な講義を聞いた。どんな話だったかは覚えていない。陽気のせい?いや、僕は何かに気を取られていたのだ。晴天を巡航する雲の編隊をぼんやりと眺めながら、蛋白質の分子構造よりはずっと惹かれるものに心奪われていたのだ。
昼食は学生食堂で汁気の多い不味いカレーライスをひとりで食べた。食べ終わって一服していると同じ学部の友人に声を掛けられた。十分ばかり下らない馬鹿話をして、玉突きをしにいった。一ゲーム目は僕が勝ち、後は友人が取った。完敗だった。玉突きに関しては自信があったのに僕は負けた。よく思い出せないが、ある種の雑念があり集中力が保てなくて負けたのだ。それが何だったのかは分からない。この辺りから僕の記憶は曖昧になっている。大切なものが抜けている。そして、負けた僕がゲーム代とコーラをおごり、店の前でその友人と別れた。
それから ・・・・・・ 。
それからの記憶がない。アパートの部屋に帰った憶えもないし、途中の道を歩いた情景も浮かんでこない。頭の中は僕の知らないうちに僕の知らない誰かが掃除したみたいにすっかり綺麗になっている。今まで雑然としていたけれど僕自身のある法則によって整理されていたものが他人の手によって壊されてしまった。
はっきりしているのは店の前で友人が「また、明日」と手を振ったところまでだ。大学の正門を背景に、半身の姿勢で軽く手を上げたぶっきらぼうな友人の姿。僕の記憶の映像はそこでぷつりと終わっている。
僕は目を閉じ、深くため息をつき、ゆっくりと目を開けた。
空には夜のカーテンが閉じていた。問い詰められるのが恐いのか、月は隠れていた。星もだ。一点の染みもない漆黒の半球。地上に明かりも見えないから、満天、漆黒の闇だ。だから、夜だってことにも自信はなかった。
目前には腐食予防のタールがたっぷり塗られた枕木の上に、二本の錆びたレールが敷かれていた。錆の匂いがここまで漂ってきそうな感じに金属は朽ちている。百年ぐらい列車はその上を通ったことがないように。線路は左右両側に真っすぐ伸びていて、それぞれの闇に消えていた。
ここは何処なんだ?
僕はジャケットのポケットに手を突っ込んで、煙草とライターを取り出した。箱の中には三本。そのうちの一本に火を付けた。そして、再び問いかけてみる。
一体、ここは何処なんだろう?
額の少し上、松果腺の辺りがパレットの上の滲んだ絵具みたいにぼやけていた。頭を軽く叩き、こめかみを人差し指で両方から強く押さえてみる。
駄目だ。真っ白だ。やっぱり、答えは出てこない。救いは名前を覚えていることだけだ。一瞬、それすらも怪しいと考えたが、あまり深く追求すると自分自身が消えてなくなりそうな気がしたので、煙と一緒に吐いた。神経が危うい。頭の中が混線した電話線のように縺れている。故障を直すにはひとつひとつ線をほぐす必要がありそうだ。
僕はまずジャケットの反対側のポケットを探った。捜し物はなかった。僕は慌てて体中のポケットを漁る。
ジャケットの左右と内ポケット、ジーンズの前と後のポケット。何度も繰り返し、往復する。でも、ない。祖父の形見の懐中時計。蓋の付いた銀製のねじ巻き式の骨董品。
何処かで落としたのだろうか?
十歳の冬、祖父が亡くなった時からいつでも僕の傍にあった時計。九年間もの長い間。傷だらけで、たびたび修理に出さなければならなかったし、一日に一回ねじを回さなければただのがらくただったけれど、とても大好きだった。とても大事にしていたのに。
僕は近くの地面を見回した。塵ひとつすら落ちていない。綺麗というわけではなく、何もないのだ。粒子の荒いコンクリの上には。
プラットフォームにはまるで当たり前かのように時計がない。
落胆。
時間が僕の懐から落ちてしまった。そして、大切なものもなくしてしまった。
僕はベンチに腰掛けた。
何処に座っているのか分からない自分。どうやってここに来たのか分からない自分。何故ここにいるのか分からない自分。
今まで十九年間、平凡に過ごしてきた自分が嘘のように思えた。それはちょうどグラフ上にあった僕という存在が誰かに写像関数を与えられ、曲線の彼方の座標まで連れてこられたような感じだ。今までの僕がxで、今の僕がy。その関数がどのような定数をとるのか僕には分からない。未知だ。分かっているのはただひとつ。僕の名前。それはここに僕が存在しているということを証明しているのだろう。微力でささやかだが、唯一の救いだ。
僕はスニーカの裏で煙草を揉み消した。
これからどうしよう?
混線を処理する方法が思いつかず、僕は途方に暮れた。宙ぶらりんの僕には考える術がなかった。考えを導く藁すらも見えなかった。今の僕の思考は波間を漂う水母と一緒だ。
時間が分からないと時間の流れがとてつもなく緩やかなものに思えた。いや、時間そのものの意味が皆無なのだ。
みゃーう。
何処か遠くの方から猫の鳴声が流れてきた。悪魔に魂を売った赤ん坊の泣き声のような気もする。ひどく刹那的で、ひどくかぼそく、ひどく感傷的な響きで僕の鼓膜を震わせ、注意を惹く。
僕は耳を立てた。
鳴声は線路の右手側から聞こえてくるようだった。暗闇の彼方か?神経をさらに集中し、出来る限り感覚をとぎらせようとするが、猫の鳴声がそうだからなのか案外正確な位置が固定できないことに気付く。漠然とした不定形を持ち、鳴声は漂ってくる。ふんわりした柔らかな耳触りだ。それでも音は大きくなってきている。徐々に近付いていることは確かだろう。僕と鳴声はその距離を狭めている。
混線した電話線に甘く暖かい風が吹いた。
馴染みのある哺乳類がいると分かっただけでもほっと気が休まるものなんだ。
みゃーう、みゃーう。
闇の中から猫が姿を現した。体毛は白色で、蛍光灯の弱い光にあたり自ら発光しているかのようだ。さほど大きくないからの猫。後右足を浮かせるようにシンコペーションで歩いてくる。自動車にでも轢かれたのか、子供の悪戯に巻き込まれたのか、後右足がうまく曲がらないようだった。深いグリーンの眼で、虹彩を細めながら、僕をじっと見つめている。
実体が見えると鳴声は輪郭のはっきりしたものに変わった。猫らしい猫の鳴声だ。まるで僕を迎えにきたリムジンの運転手のように、慇懃な仕草でゆっくりと近寄ってきた。
みゃーう。
猫は僕の足元にすり寄った。
無人の駅に足の不自由な一匹の猫か ・・・・・・ 。悪くない取り合せだな。そこに僕が、何故ここにいるのか分からない僕が収まれば奇妙な三重奏を奏でることさえ出来そうだ。
僕は足元にじゃれつく猫を抱き上げた。軽く爪を立てジーンズの裾をひっかいていた猫は胸の中に入るとおとなしくなった。嫌がりもしない。体毛はリンスしたてのように柔らかく、仄かな体温が手のひらに密着する。
悪くない。
人馴れしているところを見ると誰かの飼猫なのかもしれない。
そういえば小さな頃、猫になりたかったんだよな。昔、住んでいた家の隣の一人暮らしのお婆さんがいつも庭先で老猫と陽なたぼっこしているのを見てからだっけ、確か。部屋から部屋へ、屋根から屋根へ、ごみ箱からごみ箱へ、空き地から空き地へ、猫しか知らない秘密の抜道を駆ける。起きたい時に起き、食べたい時に食べ、眠りたい時に眠り。そんな勝手気侭な身の振舞いや、フットワークの軽さに何となく憧れたんだよな。一度、一日中猫を追いかけまわして迷子になり、隣町の交番で両親の来るのを待ったこともあったっけ。八歳ぐらいの時だったかな。
猫を抱きながら僕の頭の中では回想の幻灯フィルムが映されていた。檸檬と橙を混ぜたような色と匂いと味のするフィルムだ。それはしばし、僕の置かれている立場という不可解なものを忘れさせてくれる効用をもたらせてくれた。甘くうっとりしたカラメルのような蜜を、縺れた電話線の上に降り注ぎ、現実といううすのろを何処かにぶっとばしたのだ。
僕と猫は仲間なのさ ・・・・・・ 。
とても優しい気持ち。
「一緒についてくるか?」
僕は猫の耳元で囁いた。
猫はイエスともノーとも言わず、ただ僕の肋骨に響くように小さく喉を鳴らした。僕は猫の喉を撫でた。猫は眼を細めた。
僕は猫と一緒に駅を出ていこうと心に決め、抱き直した。とにかくここから出ていこう。訳の分からないこんな場所とはおさらばだ。一刻も早くおさらばだ。
僕は一歩踏みだした。
だが、僕の試みは一歩で終わった。
闇の向こう側から今度は低い管楽器の音色が流れてきた。ひび割れたチューバの不協和音のようだった。微妙な吹き具合のクレッシェンドは僕の足を止めた。猫は鳴くのを止めた。
やがて、ふたつの光の眼が右手の方に現われた。ふたつの眼は音とともに、徐々に大きくなっていた。何かが近付いている。僕は耳を澄ませた。音の正体は ・・・・・・ 。僕の身体が自然と強ばった。
列車だ。
列車の前方がはっきりと確認できる距離になると、僕の周辺の空気が振動し始めた。死んでいたものが生き返ったようだ。今までそよともしなかったのに微風が僕の頬を撫でた。空間はざわめき、緊張した。そして、僕の中にもそれは共振する。
ブレーキ。枕木の軋む音。錆びたレールの揺らぐ音。車輪の甲高い金属音。火花。列車は速度を徐々に落とし、そして、やがて、ゆっくりと停止した。ピストンから蒸気の出る、幾つもの沸騰したブリキのヤカンを並べたような音がして、ゆっくりとドアが開いた。
降りる人の姿はなかった。もちろん乗る人の姿もだ。長旅に疲れた帰郷の兵士もいなければ、別れを惜しむ恋人達もいない。時々漏れる蒸気の余韻以外はとても静かだ。
旧式の異国の列車だった。客車は長く、後の方は闇に消えていた。数えれる範囲だけでも十両以上はありそうだ。一番先頭の牽引車には小さな曇ガラスが填められ運転手の顔は拝めなかった。僕の見える範囲に乗客の姿はなかった。それでも列車は誰かを待っているかのようにどっしりと腰を下ろしていた。
僕は金縛りにあったかのように右足を半歩出した姿勢で立ちすくんでいた。頭は何も考えていなかった。ただ、事のなりゆきを眺めていた。そして、大脳の次の命令を待つべく、四肢はギアをニュートラルに入れらていた。
突然、胸の中でおとなしくしていた猫が地面に飛び降りた。それはとてもさり気ない仕草だった。猫は二歩、三歩と列車のドアの方へと近寄っていき、何のためらいもなく、フォームと列車の隙間を不自由な足をかばうようにして飛び越えた。
列車に乗り込んだ猫が振り返った。
猫は高さ三十センチのところから僕を見上げ、僕の目をじっと覗き込んでいる。
猫と僕の目の間に透明の線分が引かれた。
地下深く、幾千万の昼と夜を刻み続けてきた鉱物の結晶のようなグリーンの眼球。表層に翳りの一筋さえも見せず、痩せ細った三日月の虹彩で、一点に僕を凝視する。催眠術をかける術師とトランス状態の被術師のように僕等は見つめ合った。
僕等はしばらく、その姿勢を続けた。
警笛。
プラットフォームに静寂を破る残響の長いベルが鳴り響いた。警笛は僕の金縛りを解き、脳髄はアイドリングし始めた。発車を告げるアナウンスも肉声も聞こえないが、また空気がざわめいた。悪戯好きの妖精たちがこそこそ小声で喋る感じ。
警笛が止む。
再び静寂。張りつめた静けさ。
・・・・・・・・・・・・ 。
僕は背中を誰かに押されるように、慌てて列車に飛び乗った。背中越しにドアの閉まる鈍い音。一呼吸おいて列車は動き出した。
車内は真綿でくるんだ金平糖のような暖かさに満ちていた。それは温度や湿度だけでなく、雰囲気を含めた全てがだ。何度もニスが塗られ手垢が沈着した木製の座席、真鍮の金具で補強された側璧と窓枠、深緑色の網棚。天井にぶら下がった合計五つのフィラメントの太い白熱球がそれらをノスタルジックに照らす。
僕はドアに近い通路の左側の座席に腰を下ろした。座席は対面式の四人掛けで、進行方向に向かって僕は座った。
窓からは何も見えなかった。ビルもネオンも工場も家並みも田園も河川も湖沼も電柱も鉄塔も踏切も。切り取られた車窓の風景には先程と変わらぬ漆黒の闇が続いている。
何故、僕は乗ったんだろう?
窓ガラスはよく磨き込まれていたが、安物で厚さにばらつきがあるため表面が波打っていた。顔を近付けると、小さな頃よく遊んだラムネ色のビー玉を思い出させた。夏のぎらつく陽光に透かすと、閉じこめられた光の粒子が飛び跳ねるように踊っていたことを。
窓ガラスにはもうひとりの白黒の僕が映っていた。白黒の僕は窓枠の縁に肘をおき、ぼんやりとした目で僕を見ていた。のっぺりとした表情からは何も引き出せない。
何故、僕は乗ったんだい?
列車が来たからさ ・・・・・・ 。
白黒の僕の声が直接、僕の頭の中へ答えを突き出す。 理由はただそれだけかい?
そうさ。きみは待っているだけで向こうから何かがやってこなくちゃ何も出来ないんだよ、いつも。
キツイな ・・・・・・ 。いったいきみは誰なのさ?
白黒の僕がにやけたような声で答えた。
ぼくは、迷子の猫さ。
僕等は二人で同時に苦笑した。
本物の猫は右足のスニーカを枕代わりにして、おとなしく丸くなっていた。鳴声も立てず、瞼がうつらうつらと細くなっている。
やっぱり、僕は人間だ。何故ここにいるのか、何処へ記憶が行ったのか分からなくとも、人間であるということは動かしがたい、動かしても動かせない、事実なんだ。 僕は白黒の僕から目を背けた。
猫になりたかったな。
猫になって、街の中を自由に走り回りたかったな。人間の現実から逃れて ・・・・・・ 。
列車はとうの昔に加速するのを止め、気持ちよく揺れていた。僕は南国の無人島で椰子の木陰にハンモックを吊し午睡を取っているような気分だった。列車の閉鎖された空間には目に見えない睡眠薬の粉がいっぱい詰まっていたのだ。背筋をしゃんとしていた力は奪われ、僕から空間へと消えていく。
疲れたな ・・・・・・ 。
もう、どうでもいいや ・・・・・・ 。
僕は眠る前の一瞬に、ポケットから消えた祖父の懐中時計のことを思い出した。そして、そのことを想った。何処か誰にも邪魔されないところで落ちていてくれればいいけれど。誰にもねじを巻かれずに、誰にも拾われずに ・・・・・・ 。
僕は小さく心の中で祈った。
甘く長い猫の間延びした鳴声。でもそれも途切れ、途切れで。やがて僕は夢の中に完全に落ちた。